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総会・支部長会、礼拝(棚村)

2013年07月03日

 

総会・支部長会

梅雨空のもと6月15日に総会、15日夜・16日に支部長会を開催しました。 20130772-1.JPG

総会は出席者186名、委任状444名によって成立し、議案は全て承認されました。

総会の報告は「同総会会報第57号」でご覧いただきたいと思いますが、印象的だったことを少し書きます。

礼拝で棚村惠子先生が「見えないものを見る」と題した東京女子大学の見えないものを大切にする精神についての奨励をしてくださいました。私には伺った内容と感動をお伝えすることはとても難しく、先生のお許しを得て奨励の全文をここに掲載いたします。

大学の理事長・学長を始め大学関係者の方々が、大学の現状を映像も使いながら、とてもわかりやすくお話くださいました。大学のことを知るには総会はとてもよい機会になるのでお勧めです。

支部長会は「創立100周年に向けて 支えよう母校・育もう未来を築く女性を」をテーマにグループ別懇談会をしました。短時間ずつですが私も全てのグループに参加しました。当日までにまとめておいていただいた項目の一つ「支部で現在活躍している卒業生を具体的に調べて報告」は特に興味がありました。活躍例としては、DV防止と啓蒙活動、刑務所などで外国籍の人のための通訳、100回にも及ぶホームコンサートの開催、自宅で15年間開催している読書会、地元でコンサートの企画による地域興し。更に家庭裁判所の調停委員、教育委員会の委員、旅館の女将、書家、織物家、中学・高校・大学の教員、アナウンサー、そして多くの方が地元でのボランティア活動をなさっていました。同窓生が地域で活躍している姿に元気をいただきました。これからも、一層、未来を築く女性を育む同窓会でありたいと思います。

今回の総会をもって7人の役員が退任し、7人の新役員が推薦され承認されました。本年度も新メンバーと共にがんばってまいります。ご協力・応援をよろしくお願いいたします。

 同窓会会長  山田純子


同窓会総会 見えないものを見る

 

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聖書 ヘブライ人への手紙11章1-3節

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、

従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 

「これが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる 心置きなく泣かれよと 年増婦(としま)の低い声もする あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・・吹き来る風が私に言ふ」

私の郷里、山口市の中原中也という詩人が書きました『帰郷』という題の有名な詩の一節をお読みしました。故郷に帰る―それは懐かしさばかりではありません。「あなたは、故郷を出てから今までどんな人生を歩んできたのか」と問われることでもあります。皆様がたにとっても同様ではないでしょうか。「これが私の母校、東京女子大学だ」との熱い思いで今日キャンパスに戻られたとしても、その帰郷は、若かりし頃の懐かしい思い出に浸るばかりではないでしょう。学生時代の失敗や苦い思い出に傷が疼くこともあるでしょう。さらに「おまえは何をして来たのだ」と、久しぶりの母校の風は、私たちに卒業してからの人生の中間決算を迫ります。

中原中也は、故郷山口を出てから若い奔放な生き方の中で、たくさんの挫折や―彼の言葉によれば―「汚れつちまつた悲しみ」を経験しました。故里の風はそんな中也に問います。「あゝ おまへはなにをして来たのだ」と。ここに集まる私どもは、それぞれに母校を旅立ち、人生を歩んで再びここに戻ってきました。正門を入って本館の「QUAECUNQUE SUNT VERA」のラテン語を見たときに、また美しいキャンパスを歩くときに頬をなでるさやかな風に、母校が投げかける問いが聞こえないでしょうか。卒業以来、私達の旅路は決して平安なときばかりではなかったはずです。思いがけない苦労や誰にも言えない悲しみがあったことでしょう。そんな私たちに、「心置きなく泣かれよ」と旅を労う低い声も聞こえてきます。母校とはありがたいものです。

 まもなく100周年を迎える私たちの東京女子大学を形づくったもの、それは目に見えない信仰、希望、愛であったと言えましょう。信仰とは何でしょうか。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とさきほどの聖書の言葉にありました。東京女子大学がまだ影も形もなかったとき、ある人々の心に湧き起こった「アジアに是非、キリスト教主義の大学を建てよう」というビジョンと確信、そしてまだ何も見えないのに、将来形となるであろうことへの揺るがぬ希望、その大学で一生懸命学ぶであろう乙女たちへの愛、それらがあったからこそ困難を乗り越えて本学は見える形となりました。見えるものは、目に見えているものからできたのではなく、目に見えない強い信仰、確かな希望、女性への愛がなければ無から有はできませんでした。

ところで、なぜ先人たちは確信をもってキリスト教信仰と大学を結びつけようとしたのでしょうか。プロテスタント諸教派の人々とその支援者たちにとって、また新渡戸稲造先生や安井てつ先生ら日本人キリスト者にとって、高等教育の目的は、知恵を究め神のように賢くなるためではありませんでした。むしろ逆で、人の知恵の限界を悟り、自らの罪深さと小ささを知り、神に与えられた場で真実に生きる人間を生みだすためでした。

本館の文字、「凡そ真なるもの」は使徒パウロが書きました「フィリピの信徒への手紙」第4章からとられていますことは御存じの通りです。この言葉は学問的真理探究というよりは、思いと言葉と行いとにおいて真実であるという意味です。言い換えれば、「真実に生きる」となりましょう。使徒パウロにとって、真実とは信仰の目によって十字架のキリストを知るに至る真理です。そしてそのことに正直にふさわしく生きることこそフィリピの人たちに奨めたい生き方でした。

この「真実に生きる」という姿勢は安井先生がおっしゃったサムシングということにつながります。安井てつ先生は昭和11年4月の入学式の式辞で「3年間、4年間を通じてなす宗教的生活は美しいものがある。これは口に出していへぬが、感知しうるもので、これをサムシングと称する。大抵の卒業生はこれを感知する」と言われました。目に見えない、ただ心に感知する以外にないサムシングは、宗教的生活によって涵養されるという安井先生の確信は、新渡戸先生の提唱されました「犠牲と奉仕」の精神にも通じるものでありましょう。サムシングも二つのSの精神も目には見えないものです。しかし、この目には見えないものが東京女子大学を生み、育て、今日まで導いてきました。これらによって東京女子大学は大学という場でありながら、チャペルを持ち、礼拝を毎日捧げているのです。そのことによって一般大学にはない雰囲気を漂わせているという訳です。この目に見えないものが本学の独特の雰囲気を形作ってきましたし、これからも目に見えないものを見続けることが私たちの未来を創っていくと確信します。これが、私たちの故里、母校、東京女子大学なのです。これまでこの大学で真実に生きようとしたすべての人々が作り出した私たちの大学の目に見えない宝、これを見失うことなく、100周年に向けて互いに励まし合いつつ母校を盛りたてて行きたいものだと思います。

棚村惠子

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