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義理の母であり、先輩であった人

2016年03月01日

 

 年明けに、義理の母が亡くなりました。この数年認知症が進み、夫と私と息子の三人が同居するために引っ越してきてから、ちょうど一年、でした。

 急なことだったので驚きの方が大きく、まだ実感できてないようにも思います。いろいろなことがありましたが、まだそれを振り返る余裕もありません。

 今回この場に個人的なことを書かせていただくのは、義母が東京女子大学の同窓生であるからです。

 義母・高田礼子(旧姓・遊田)は、1956年文理学部日本文学科の卒業です。中高時代からの親友のお父上でとても尊敬しているから、と、卒業論文では木下杢太郎を取り上げました。

礼子の父親・遊田多聞は岩手県遠野の出身、母親は偲翠女(しすいじょ)の俳号を持ち、岩手県人俳句会に参加していました。この句会を指導していた岩手県盛岡出身の山口青邨氏主宰『夏草』の会員に、偲翠女はなります。ここから、礼子と山口青邨先生、白塔会のご縁ができるのですが、青邨先生の文章から引用します。

 

  昭和三十年だったと思ふ、東京女子大学の学生だった遊田礼子さんの家で学生・先輩・知人といふやうな人たちが集って句会を催した。礼子さんのお母さん偲翠女さんは私の主宰してゐる夏草の会員であるといふ関係で私が招かれ指導した。句会は毎月開いた。第一回の日が春の雪がべたべた降ってゐたので会名を春雪会とした。

  翌年会を解散して大学の方へ移管した。大学にはすでに白塔会といふ俳句研究会があり、さうした方がなにかにつけてよいと思った。

  岩間とほる先生がかつて私が東大にゐた頃私の大学での俳句会に学生として出たことがあると言ってこの会に出席された。木村形型子(けいけいし)先生は学長になられてからだが奥さんと一緒に出席された。

  句会は学内のもっとも奥の都筑記念室で催された。木立深い中の径を入ってゆくのがいつも楽しかった。松や櫟の古木が天をおほひ下草の虎杖や熊笹が藪になって茂りその中に山百合が咲いてゐたり、また尾長鳥や鵯が遊んでをり、このあたり武蔵野の俤が残ってゐた。  (後略)            『白塔』序より、昭和六十二年十二月発行

 

木村形型子先生とは、第六代学長の木村健二郎先生です。

礼子は卒業・結婚・出産・地方暮らしと人生を重ねる中で、俳句からは離れていきました。が、昭和五十二年(1977)に東京女子大学に青邨先生の句碑が建立されることになった時、青邨先生は「どうしても、遊田礼子さんを呼ぶように」とおっしゃったそうです。

すっかり俳句をやめていた礼子は尻込みしましたが、意を決して句碑の除幕式に出席、青邨先生の下で俳句を再開しました。

青邨先生は昭和六十三年(1988)、九十六歳で亡くなられますが、その年の3月に入院する直前まで句会は欠席なし、入院中も選句を休むことはありませんでした。先生は12月に他界なさいました。青邨先生亡き後の白塔会は黒田杏子さん(61文心・『藍生』主宰)が引き継ぎ、今に至っています。私が白塔会に参加したのは1989年、青邨先生が亡くなられた直後のことです。

義母・礼子は、青邨先生が昭和三十年(1955)に自宅にいらっしゃり、名付けて下さった「春雪会」を、とても大切にしていました。自宅を「春雪舎」と呼び、後に自らが発起人・世話人を務めた俳句会は「春雪会」、主宰した子ども俳句会は「春雪ジュニア句会」、一時所有したアパートは「春雪ハイム」、などなど、です。

戒名をつける参考にするから、と、菩提寺から義母のエピソードを求められました。実の娘である義理の妹と、あれこれ思い出し、やっぱり「春雪」だね、と一致しました。

戒名は「慧眼院春雪日禮信女」となりました。そのために通夜の日は未明からの大雪となったのだ、と私たちは思ったことでした。

                            同窓会副会長 高田倫子


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